中村晃の言葉に感動

――実際に、4年で戦力外を告げられました。

近田 予定通りという感じでした。球団からは野手として育成契約の打診がありましたが、お断りさせていただきました。僕の中では指導者になるため、引退して教員免許を取る勉強しようっていうことしかなかったので、その思いも伝えさせてもらいました。

――その思いを伝えた時、周りの方はどのような反応でしたか?

近田 戦力外になったあと、ありがたい言葉をかけていただくことが多くて、先輩の中村晃さんに「お前とは一緒にやりたいから、もう1年頑張ってみないか」と言っていただきました。球団の方からも「球団職員として残らないか」という言葉をいただきました。本当にありがたいと思いました。

――トライアウトを受けたのはなぜでしょうか?

近田 知り合いに「まだピッチャーできるよ。受けるだけ受けなさい」って言われて、ピッチャーとして受けてみました。

――教員を目指していた近田さんはどういうきっかけで、JR西日本でプレーすることになるのでしょうか?

近田 トライアウトも駄目だったので、知り合いの会社で働きながら、通信教育を受けて、教員免許を取ろうと思っていました。そんなとき当時のJR西日本の総監督だった後藤(寿彦)さんから連絡があったんです。後藤さんは以前甲子園の解説者をしていて、僕が投げた試合を見ていたそうです。僕が戦力外になったことを知り、高校時代の恩師である永田裕治監督(現・日大三島監督)に連絡したんです。

――後藤さんからどういう話をされましたか。

近田 「将来指導者になりたいでしょ?」と言われて、「そうです」と返すと「社会人野球を経験しているのと、していないのでは指導者のキャパシティ、指導力が違うからやったほうがいいよ」といわれたんです。それで社会人野球でプレーすることにしました。そのとき心に決めたのは、指導者になるためにやるのと同時に、もう1回プロ野球選手に復帰する目標を立てました。

近田 怜王(ちかだ・れお)

1990年4月30日生まれ。報徳学園時代は07年の春夏、08年の夏と3度の甲子園に出場し、08年夏はベスト8入り。08年ドラフトではソフトバンクから3位指名。09年からプロ4年間は一軍登板なしに終わり、最終年の12年は野手に転向。13年から活動再開となったJR西日本野球部でプレーし、15年に都市対抗出場し、現役引退。2017年から社業の傍ら、京都大の臨時コーチに就任。18年4月から正式にコーチ就任し、21年11月から監督に就任。22年春には開幕戦から勝ち点をあげるなど3選手がベストナインに選出された。今年の24年春は関西大、立命館大から勝ち点をあげて、4位に躍進している。